【樹の中の空】

1話

 


『何無妙法蓮華経、 何無妙法蓮華経 何無妙法蓮華経…』     
 僧侶達の、深く響く声が響き渡る。
 祭壇には、叔父の生前の写真が飾られ、葬儀はしめやかに行われている。
 叔父の写真は、予期しない死のために、あわてて用意されたものなので、視線があらぬ方に向いている。
 かのんも座布団に座りながら、回ってきた焼香をあげ、隣の叔母に渡す。
 決まりきった段取りに従って進む葬儀は、より近しい者を煩雑な用事で振り回した。
 悲しみを、一時的でも心の奥底に追いやってしまう。
 死者へ弔いと共に、残された者の意識の切り替えの役も、おっているのではないか?
 黒い喪服に身を包み、かのんは葬儀に参列するたびに思う、そんな意見を心の中でつぶやくのだった。
 しばらくして僧侶が退出し、葬儀の司会を勤める女性が、トーンをおさえた声で
「…ここで弔電を紹介させて頂ます。
   株式会社旺来社専務取締役 川添琢磨様より
 突然の知らせに、一同困惑しております。心より、お悔やみ申し上げます
    三野義一様より・・・・・・。
 心安らかなご冥福をお祈り申し上げます。
   株式会社 ミネツグ代表取締役  安東七海様・・・。」
 かのんの知らない人達の名が挙がる。部屋に閉じこもって小説ばかり書いていた叔父だけれど、以外にも外界とのつながりがあったのだと思う。
 何気なしに、今とさほど変わらない叔父写真をぼんやりと見つめていると、何となく変な感じがするのだ。
 それが何かと考えていると、叔父の顔の角度が変わっている?
 正面をまっすぐ向いているのである。
 写真の顔は、太陽の光を浴びて、眩しそうに目を細め、カメラに焦点を合わせていない写真だったはずだ。
 『もう少しマシなのなかったの?』
 と、昨日に、何枚か広げられた写真を見つめて、ため息をついて言った母の言葉が、し っかりと耳に焼き付いている
 元々カメラを向けられるのを好まなかったらしく、
 『これでも探したのよ。』
 と、ブツクサ文句を言い返していた叔母の昨晩の言葉も、記憶に新しい。
 写真を決めた時は、深夜だった。
 半分眠気で朦朧とはなっていたし、写真選びにも参加していなかったので、一瞬にして記憶があいまいになる。。
 かのんの思い違いだったのだろうか。
 写真の彼は、瞳の力も強く、しっかり正面を見据えている。
 まるで何かの言葉が飛び出そうな勢いだ。
 そう思った時、彼のその口がゆっくり開き出すのだ。
(え!?)
 わが目を疑った。
 目をごしごしこすり、もう一度彼の写真を見つめると、驚いたことに写真は花音の記憶にあった写真に戻っている。
 少し眩しげに目をひそめ他方に視線を向ける、若いままの叔父の顔はかのんを見ていない。
(錯覚だわ。もう・・びっくりするじゃない・・。)
 妙なものを見たせいで、ドキドキしだす胸を押さえ、かのんは座りなおした。
 読経の声がひときわ高まって、佳境にさしかかったのだろう。お坊さん達の深い美声はハモッて最後を迎えた。
  読経が終わると、最期のお別れとして、桶のふたがすべて上げらる。みなで花をいれてゆくように、静かに司会の指示があった。
 蓋をあけられて、眠っているようにも見える、安らかな叔父の顔が現れる。
顔を見るとダメだ。
 みるみる思い出が、湧き上がってくる。
 たくさんの書物が、積み上げられていた埃っぽい部屋の中で、机に座る叔父の姿・・・。
 まだ小さかったかのんが、彼の周囲を縦横無尽に走り回る。
 執筆中の彼の膝に乗って、おとぎ話を話してもらうのをねだっり、わがもの顔でゴロンと横になったり…。
『かのんは僕のアンカー。』
 叔父は、意味不明のその言葉を、よく口にした。
 叔父の瞳はいつも優しい光を宿していた。
 彼と過ごす時間がとても心地よかった。
 父のいなかったかのんには、叔父こそが父の姿…。
 彼はもういない・・・。
 津波のように押し寄せてくる深い喪失感や、悲しみの感情をおさえきれない。とめどなく涙があふれてくる。叔母達も涙を流していた。
「しゅう・・。」
 と、つぶやいた祖母が、憔悴しきった表情でおじの頬をそっと触る。
 花を入れる順番が回ってきて、カノンは手持ちの花をそっと、彼の頬の辺りに入れようとして・・・。
 また叔父の瞳がピクリと痙攣する。そして、ゆっくりと開き出すのだ。
(!)
 かのんは、とっさにまばたきを繰り返すと・・。
 ・・・叔父の瞳は閉じたままだった。
 びっくりしすぎて動けない。
(私、・・・だいぶ疲れてるみたい・・。)
 かのんは、またドキドキしだした胸を押さえ、頭を振り、花を棺の中に納める。
 祖母と同じように、叔父の頬に触れると、冷たかった。生きているならあり得ない冷たさだ。
 鼻の穴にも、耳の穴にも綿が詰め込まれているのを目にして、
(修さんが目を開けるわけがない。目の錯覚よ。)
 と、“何かがおかしい”と思う、訳の分らない妙な感情のようなものを、理性でかき消す。
 続いて叔父の友人らしき人も花をいれ、あちこちにすすり泣く声が響く。
 花を入れ終わると、棺桶の蓋がしめられ、親族によって、くぎ打ちの儀式が行われた。
 叔父の棺桶はしずしずと外に出て、待機していた霊柩車に入り、出棺の儀式が取りおこなわれる。
 憔悴しきった祖母は斎場までは、行くことができなかった。母は、祖母と共に残り、叔母たちに囲まれて、かのんは斎場に向かった。
 火入れの前に、お経が読まれ、本当の最後の顔見せが行われた。
 叔母達のすすり泣く声。
(修さん・・。息を吹き返して!)
 火を入れられてしまうと、さすがに彼は動かす肉体を失ってしまう。
 かのんは、なぜだかそう思った。
 無理な願望を心の中で叫ぶ。
 その言葉は、ありえない事だから、口に出すことはできなかった。
 すると、まるでそんなかのんの言葉に誘われるかのように、顔だけ出した叔父の首が突然痙攣し出すのだ。
 瞳もブルブルと震え、ゆっくりと目が開かれてゆく
(修・・さん?!)
 焦点の合わなかった瞳は、くるりと回転し、視線が泳ぐ。
 みるみる瞳に力が戻り、自分を見下ろしている面々を、見まわした。
 かのんに気づくと、口元を動かしにくそうにピクピクと痙攣させて、かすれた声をあげるのである。
「・・・時がせまっている。・・かのん、気をつけて。アンカーはもうここにはいられない。」
 と、はっきり紡ぎだしたその言葉。






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